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THINK7

作家・高山羽根子さんと
「アーカイブが照らす、”知”の未来」を考える。

高山羽根子(左)
たかやま・はねこ/1975年生まれ。作家。多摩美術大学美術学部絵画学科卒業。2009年『うどん キツネつきの』で第1回創元SF短編賞佳作、2016年『太陽の側の島』で第2回林芙美子文学賞を受賞。 今年の7月、『首里の馬』で第163回芥川龍之介賞を受賞。
速水健朗(右)
はやみず・けんろう/1973年生まれ。ジャーナリスト。食や政治、都市、ジャニーズなど複数のジャンルを横断し、ラジオやテレビにも出演。〈団地団〉としても活動中。近著『東京どこに住む 住所格差と人生格差』(朝日新書)、『東京β』(筑摩書房)など。TOKYO FM『TOKYO SLOW NEWS』パーソナリティも務める。

クイズ番組の勃興と、日本の”知”の親和性。

2020年上半期の芥川賞受賞作、高山羽根子『首里の馬』は、クイズとは何かをめぐる物語として読むことができる。クイズと文明の記録は結びついているのだ。ところで、なぜクイズだったのか。そこから訊ねてみた。
速水健朗さん
速水健朗さん
『首里の馬』は、クイズと文明の記録というモチーフの意外性の部分に惹きつけられました。クイズって、その時代の知識のデータベースであり、それを世間にアウトプットするときのインターフェースでもあると。クイズを多様に捉えていますよね。
高山羽根子さん
高山羽根子さん
小説を書く前に『アメリカ横断ウルトラクイズ』を見たんですよ(笑)。主婦やサラリーマンといった素人が参加するクイズ番組なんですけど、単に一発当てよう、賞金がもらえるぞ、ということではなく、クイズのチャンピオンになることで社会の何かに爪痕を残そうとしているんですよ。
速水健朗さん
賞金出なかったんですよね。優勝者が潜水艦とか無人島をもらったりしてたのを覚えてます。
高山羽根子さん
赤ちゃんを抱えた回答者のお母さんが後楽園球場を大疾走したり、番組の司会者は絞られていく挑戦者にあだ名をつけて親近感を高めていったりしながら、負けたら脱落、旅先から即時強制帰国というシステムですが、勝ち残れば海外の長期滞在が必要なので、皆会社を休んだり辞めたりして参加しているんですね。
速水健朗さん
決勝戦まで残れば、ニューヨークのパンナムビルの屋上で緊張の決勝。ウルトラクイズは、クイズ番組の王様みたいな存在で、いや、大人になったら出るぞって、信じていたんですけど、いつしか終わってました。
高山羽根子さん
参加した独身女性が「行き遅れ」なんていじられたりもしていましたが、あれはやっぱり時代だったんだろうなあって。
速水健朗さん
人生そのものが見世物になるって、リアリティ番組の時代だと珍しくはないですが、そのはしりだったかもしれません。
高山羽根子さん
そもそも進学校の高校の部活に、必ずクイズ研究会があるってことも、すごいことですよね。進学校といえば、かつて年越しのテレビ番組の『ゆく年くる年』で学習塾に泊まり込んで、除夜の鐘を聞きながら生放送をしていたのも思い出します。”合格”って書かれたはち巻き巻いて。
速水健朗さん
受験前の泊まり込み合宿の風景の中継って定番でした。ものすごい熱狂というか、あれもリアリティ番組的ですよね。そっか、あの時代ってすべてクイズ番組化していたのか。クイズ制民主主義国家ですね(笑)。
高山羽根子さん
クイズって、『パネルクイズ アタック25』 『クイズタイムショック』『クイズ$ミリオネア』などの、その時代を象徴する番組がずっとありますけど、そんなクイズ番組を戦後の”知”のありようになぞらえられないかな、という思いつきが、小説を書くきっかけのひとつですね。高度経済成長期、バブル期、今に至るまで”知の受難”って段階的にあるんだと思いついたんですよ。その歴史と結び付けられそうだなって。
速水健朗さん
その連想、おもしろいですよね。もともとラジオやテレビ初期のクイズ番組って、小説家とか文化人が解答者だったんですよね。それがタレントになり素人になり、素人のリアリティショーになっていく。おバカタレントブームも、東大王ブーム、インテリ芸能人ブームも、現代の日本人に足りていない知的プライドをくすぐっている感じがあります。

文明をアーカイブすること、アーカイブが未来を作ること。

ーー『首里の馬』には、文明をアーカイブすることへの”問い”がある。何を残し何を受け継いでいくか。その時代の何が注目されるかはわからない。
速水健朗さん
官僚が会議の文書を残さない、みたいなことが今の日本では繰り返し問題になります。何かを残すということは、高山さんが小説家になる前にいた美術の世界の関心事でもありますよね。
高山羽根子さん
レオナルド・ダ・ヴィンチくらいの昔だと、医学と建築と美術などの知識に現在のような境界はなく、博物学的な考えかたが強かったんだと思います。コレクションは人に見せるためであると同時に、貴族やエスタブリッシュメント層がまず所有するためのものだったりして。
速水健朗さん
作品を残すことと、技術そのものを残すことの意味が重なっていた時代。しかも残すのは王族とか貴族といった有力者が個人的にコレクションしていたものだったということですね。
高山羽根子さん
日本も景気が良かったころは、地方のお金持ちがパッションで集めたコレクションをミュージアムとして全国のあちこちで公開していたりという文化がたくさんありましたよね。いまでも名残りがあります。ブンダーカンマーの”驚異の部屋“じゃないですけど。
速水健朗さん
麻雀博物館が千葉の外房の海の近くにかつてあったり、箱根に謎の博物館がたくさんあったりしましたよね。多分、急速に減ってますが。
高山羽根子さん
景気が良いと、郷土の資料を集めているような趣味の研究のような行為が、アカデミズムではない場所にまで広がっていく。大衆知が堆積していくことは、そういうあらゆることのアーカイブにも顕れるのではないかなと。
速水健朗さん
『首里の馬』の主人公が勤めている小さな郷土資料館って、誰も意味を見出していない郷土的資料が集っている場所という設定ですが、イメージの中に地方のミュージアムも入っている?
高山羽根子さん
そういうところもあると思います。全国のロードサイドにある謎のミュージアムと郷土資料館的な断片の集積される場所が気になっていたりそういう、小さな疑問が積み重なって、断片が合わさって一本の小説になっていったところがあります。
速水健朗さん
『暗闇にレンズ』だと、明治期にどう映画が輸入されてきて、広まったかみたいなことをすごく掘り下げて調べたりしてますよね。資料魔的なところがあるのかなと思ったんですが。

右/今回、芥川賞を受賞した『首里の馬』(新潮社)。沖縄の古びた郷土資料館の記録整理を手伝いつつ、オンライン通話でクイズを出題するオペレーターの仕事をしている未名子のところに、ある台風の夜、幻の宮古馬が庭に迷いこみ…・・。左/最新刊『暗闇にレンズ』(東京創元社)は明治時代から“映像”に関わってきた女性の一族を辿る年代記。

高山羽根子さん
基本的にはフィクションは”ほら話”でもあるんです。資料を使っていようが、それをどうほらの材料にしてやろうというところで物語を作ります。でも、ほらを書く以上、倫理を大事にしたいという思いもあります。例えば、『首里の馬』の主人公は盗みもする。かなり危うい人物だと書いた人間でさえ思います。それを読んでいる人はどう受け止めるだろう、例えば、違う文化の地域からはどう見えるかなとか、そういうことは常に頭に置いて書いています。
速水健朗さん
『首里の馬』の舞台は沖縄ですけど、その理由ってあったんですか?
高山羽根子さん
実際に現地に行って見たものの蓄積なんですが、例えば、首里城も昔からお城があったわけではなくて、戦後に再建されるときに、学術的な研究や建築の技術だけでなく、大衆文化に残された建築の技術や文化が組み合わさっているんです。そして、再建費用の一部に、アメリカ資本が混ざっているような部分もある。私はそういうモザイク状にいろいろな要素が絡み合っている話が好きなんです。
速水健朗さん
わかります。沖縄の町もモザイク状に過去や文化が集積していますよね。琉球古来の文化とアメリカ占領時代の混ざり方が独特ですし。
高山羽根子さん
言ってみれば”歴史のジグザグ感”のようなものですよね。それって”知の保存”にもつながってくる話です。物事って全部がきちんと積み上がるわけではなく、ジェンガじゃないけど、抜けているものもある。そして、その抜けを支えているものもある。
速水健朗さん
そういうモザイクのかけらを集めて小説にしていく手法は、おもしろいですね。歴史を振り返るときに漏れ落ちるものって、近々の過去であってもたくさんあります。
高山羽根子さん
私が大学を卒業する頃なので、20年以上前ですが、インターネットを始めたときに自分のホームページを置いておけるジオシティーズというサービスがあったんですよ。
速水健朗さん
僕もジオシティーズでホームページ持ってました。ブログが出てくる前の時代、90年代末から2000年代初頭が全盛期ですかね。
高山羽根子さん
掲示板とかでキリ番がなんとかとか言っていたはず。でもそれは、サービスが終了して、ある日すべてのデータが消去されたんですね。当時、あの場所を利用していた女子や男子の気持ちとか知も雲散霧消しているんだろうなって。
速水健朗さん
デジタルデータなんだから物質でもないわけで、残せばいいのにと思いますが、案外残らないですよね。コストなんてたかが知れてると思うんですが、それを残すことの重要性って議論になると、”いらないかも”ってなりますよね。地方のヘンテコミュージアムもそうですけど、公式の官の記録やデジタルメディアですらなくなる時代です。その中で何を残したり、見つけ出したりするか。現代版の民俗学のようなものが必要な気がします。
高山羽根子さん
二冊目の拙著『オブジェクタム』という作品を制作しようとしていたころは、赤瀬川原平さんが亡くなったときなんですね。赤瀬川さんの思考の仕方とか、回り込んでものを見たりっていうことに影響された部分は大きいんです。
速水健朗さん
そもそも美術家であり小説家であるという赤瀬川さんと立ち位置も似てますね。
高山羽根子さん
私は日本画で、赤瀬川さんは現代美術家という違いはありますけど、影響された部分はとても多いと勝手に思っています。いっぽうで、『首里の馬』は、今和次郎さんの提唱された”考現学” なんかについても考えながら書いた部分はあります。考現学は「現在のことを考える」学問なわけですが。今だったら、どうでしょう、駄菓子屋さんにどういうお菓子があって、一番安いのは5円のチョコ、とかそういうのに近い”知のあり方”をずっと考えていたんです。
速水健朗さん
考現学から路上観察学へという流れが『首里の馬』につながっていてと考えると、いろいろ腑に落ちる部分があります。ちょっと昔のクイズ番組が、社会でどんな意味を持っていたのかという発想もまさにそうですよね。ちなみに赤瀬川さんといえば千円札の表面を印刷、加工した作品に対する「千円札裁判」も忘れてはいけません。
高山羽根子さん
変な話、偽札っておもしろいんです。お札って物語としていろんなことが書いてあるし、テキスト情報であり、印刷技術でもあるし、たくさんの人が持っている絵画、つまり複製芸術でもある。日本の偽札史を遡ると、「チ-37号事件」という事件があるんですよ。1961年、秋田で聖徳太子の千円札に、それはもうそっくりなスーパー偽千円札が見つかって、懸賞金までかけられたんですが、未解決のまま時効を迎えたという事件です。興味深いのは、偽造したのが千円札だったところで、儲けることがきっとそこまで強い目的じゃなかったんじゃないかって思っていて。
速水健朗さん
効率だけを考えるのであれば、当然、高額紙幣を偽造しますよね。一万円札を刷ったほうがコスパがいい。
高山羽根子さん
そもそも捕まったときの刑罰も重いので、同じリスクであれば一万円札を刷りますよね。だから、名誉欲みたいなものなのかもしれないですよね。偽札って、社会経済のシステムそのものへのテロリズムで、混乱が目的だったのかという気もします。
速水健朗さん
偽札といえば、アイザック・ニュートンって、造幣局長として偽造通貨の有能な取締捜査官だったという話もありますね。印刷は科学の先端だったので、化学の知識が必要だったと。あとヒトラーは、戦争末期に偽ポンドの印刷工場をつくってイギリスに対抗しようとした話もあります。
高山羽根子さん
偽札づくりって兵器のように誰かを直接殺したり傷つけるのではなく、システム自体を麻痺させる手段なんですよね。ほかにも例えば映画もそうで、第二次世界大戦でも戦争の手段として映画が使われました。ディズニーのキャラクターが出てきて、戦争を啓蒙するプロパガンダに使われたりというのもそうですね。
速水健朗さん
まさにそれが『暗闇にレンズ』のモチーフですね。
高山羽根子さん
芸術はそれ自体でお腹いっぱいにはならないけど、それはそれでいろいろに利用されたりしていて。
速水健朗さん
小説も時代を超えて人に影響を与えることのできる武器なのかなと思いますが、今の時代のヒントを考える上で、小説家という職業について思うところってありますか。
高山羽根子さん
小説家は、今起こっていることを書いて知らせるというよりは、タイムラグがあって、時間を置いてから何かを書くという職業なんではないかと考えています。例えば、最近は好きな野球についての原稿を頼まれることがあるんですけど、プロのスポーツの記者の人たちは、その試合のことをすぐに伝えなくてはならない。その力は私にはない。試合後どころか、シーズン後になってしまう。でも、すぐに反応することとは、違うものを残す側面があるんだと思います。物事は、すぐに答えを出せばいいものではなくて、熟成が意味を持つことがあるんじゃないかって。
ーー答えはすぐに見つけなくともいい。すぐに答えを出すのではなく、じっくり考えて、そのあとに出てくる答えを待つのが小説家なのだという。なぜ時間をかけるのか。時代のどこか片隅に眠っていた何かをアーカイブする作業としての小説。それはすぐに流れていくものと留まるものの違いを考えることでもある。そんなバランスは、小説家でなくとも、我々の日常の生活においても不可欠なものだ。ゆっくりと出した答えは、長く役立つのだ。

今回、速水氏がインタビューのリサーチやメモに使用したのが、13.3型モバイルノートPCの富士通パソコンFMV「LIFEBOOK UHシリーズ」。シリーズ最上位モデルである「LIFEBOOK UH-X/E3」は 約634gの世界最軽量モバイルノートPC。圧倒的な軽さ&PCle接続に対応したSSDの搭載で高速起動。移動の合間などちょっとした時間でも、 いつでもどこでも気軽に素早く作業ができる。

富士通パソコンFMV「LIFEBOOK UH-X/E3」
OS:Windows 10 Pro 64ビット版
CPU:インテル® Core™ i7-1165G7
メモリ:8GB
バッテリ稼働時間:約11時間
Office:Office Home & Business 2019(個人向け)

※13.3型ワイド液晶搭載ノートPCとして世界最軽量。2020年9月1日現在、富士通クライアントコンピューティング調べ。

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interview&text/Kenro Hayamizu photo/Shota Matsumoto edit/Emi Fukushima

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